2020年03月9日(月)  

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3.Diṭṭha

 人間を人間たらしめている働きとして、「見る」「聞く」「考える」があります。この三つの基本的な働きによって、さまざまな哲学や思想が生まれてきました。そして、この三つの働きそのものへの疑問が提示されることはほとんどありませんでした。
 ところが、ブッダは疑問を投げかけました。
 『スッタニパータ』を研究しようとするなら、この点を外すことはできません。そしてこれは困難な道でもあります。なぜなら、研究者自身がこの三つに依存しているからです。でも乗り超えないと、『スッタニパータ』解明の扉を開けることはできません。いや研究者だけにとどまりません。これは読む人、すべてに言えることです。
 自分の土台であるこの三つについて、私たちは最初から絶対肯定の立場をとります。これは次の例からも言えるでしょう。
 現在、比較的ブッダの時代の修行僧に近いものが南方仏教(上座仏教)にあると言われていますが、彼らは戒律を大事にしています。ところが、『スッタニパータ』四章、五章では否定的なのです。さて、現在の上座仏教の方々は『スッタニパータ』四章、五章を訳しきれるでしょうか、現在、正しいとして生活に根付いていることに対して、否定的な文献は訳しにくいからです。
 これは一例です。同じようなことはほかのことでも言えます。『スッタニパータ』四章、五章で tarati(乗り超える)という言葉が使われますが、それは「今の自分を乗り超える」ことです。これは大変、難しいことでもあります。
 
 diṭṭha はdassati(見る)の過去受動分詞です。「見られた」「見た」ですが、この基本的な働きにブッダは疑問を呈します。私たちの「見た」とは具体的にどういうことなのかということです。
 実を言うと、私たちは事前知識、あるいは先入知識で物事を見ているのです。小学校、中学校、そのほとんどが知識の習得です。それで、「これを見よう」「見たものはこれである」という判断がすぐでき、頭の中ですでに仕入れた知識と照合するのです。
 ここに依存してしまうのは問題だとブッダは言うのです。常に偏見の恐れがあるからです。現在では科学技術の進歩により、新しいことが次々発見されますが、それではいままでの知識は間違っていたのか、ということになります。間違いというより、不完全であったということです。そして、これからも不完全さは続きます。
 このdiṭṭhaのわたしの訳は「先入知識で見た」です。


1.はじめに
2.Dhamma
3.Diṭṭha
4.Abhijānāti

 


 


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